ディックの傑作小説「高い城の男」の考察・解説【ネタバレ】

高い城の男の小説画像

フィリップ・K・ディック作品の中でも

最高峰と言われる作品「高い城の男」

最近、amazonの小説を耳で聞くことができるサービス「audible」でも配信されていますね。

読んだ後に意味が分からなくて調べた人は多いと思いますが・・・この作品、あまり解説がありません。

それもそのはず、明確な答えがなく、はっきりと答えられるような作品ではないからです。

複数の解釈が可能な上に、小説の内容から何を読み取るのかは読んだ人それぞれです。

読んでもなんだか意味が分からない・・・大丈夫です。

普通です。

読解力がないから、と嘆く必要はありません。

ただ登場人物が

「勇気を出して一歩踏み出そうとしているな」

と感じることができれば、この小説が伝えたいことはあなたに伝わっていると私は思います。

難しい世界観は、あとから解説や考察をみて理解できれば良いんですよ。

というわけで

  • この小説の世界観
  • 小説の伝えたいこと
  • 世界観の考察
  • 田上とチルダンのタオ

このあたりの「高い城の男」について、解説と考察をしたいと思います。

あくまで、一個人の解釈なので「こんな風に思ったんだな」くらいの感覚で読んで頂ければ幸いです。

『高い城の男』の世界観

この小説の世界観を簡単に説明すると以下3つ。

  1. 第二次世界大戦で枢軸国側が勝利している世界である
  2. 第二次世界大戦で「連合国側が勝っていたら」という内容の小説がベストセラーに。
  3. 易経(占い)で行動指針を決めている人が多数

まず歴史や政治の話が出てくるため、少しでも世界史を理解しておくと内容が入ってきやすいです。

あと道(タオ)などについての哲学知識を持っているとなお良いですが、これは一般的に知っている人は少ないかもしれません。

上記の3つについて簡単に説明していきます。

まずは第二次世界大戦で枢軸国側が勝利している世界であるということ。(現実世界では、日本を含む枢軸国側は敗北しています)

枢軸国(すうじくこく)とは、第二次世界大戦で国連側(アメリカ側)と戦った国の事で、主に日独伊三国同盟(日本・ドイツ・アメリカ)のことになります。

中でも小説の世界ではドイツと日本は超大国になっており、アメリカはこの2つの国に統治されている状態で、西側を日本が、東側をドイツが統治しています。

ドイツは戦争に勝利したことでより一層ナチス勢力の力が増し、徹底した人権主義によりユダヤ人の立場は低くヒトラー時代と変わりません。穏健派もどんどん粛清されている、そんな状態になっています。

そんな中、第二次世界大戦で「連合国側が勝っていたら」という小説を書いている人が存在します。

作者はホーソーン・アベンゼンという人物で、ロッキー山脈連邦の山奥にある城に住んでいると噂されていることから、「高い城の男」と呼ばれています。

小説は『イナゴ身重く横たわる』という題名で書かれており、ベストセラー本として世界中で人気を集めていますがドイツが支配する地域では発禁本となっており、読むことが禁止されています。

更にこの世界では、日本人を中心に③易経と呼ばれる占いが流行っており、重要な行動を起こす際の行動指針として当たり前にように利用されています。

小説の簡単な内容とおさえるべき点はこのくらいです。

『高い城の男』から伝わること

「高い城の男」が伝えたいもの、それは

  • 本物とまがい物
  • 勇気ある一歩

この2つかなと思います。

難しい世界観と設定に関しては、この2つのメッセージを伝えるための装飾のようなものと考えます。

この作品はフィリップ・K・ディックの小説では珍しく、ガチガチのSFではありません

最新のガジェット、宇宙人、空飛ぶ車・・・思い描くSF要素は出てきません。

ですので、SFを楽しみたいという気持ちで読むと「なんか違う感」が否めないのは当然です。

「高い城の男」は登場人物の心理描写と、それに伴う行動の変化に重きをおいた文学に近い作品だからです。

先ほど述べた「本物とまがい物というものは物語のいたるところで語られており、重要なテーマでもあります。

言い換えれば真実と虚ということです。

群像劇の中で、主要な人物それぞれの中にある、真実に対しての答え勇気ある一歩というのが「高い城の男」一番の見どころではないかと思います。

ディック自身のあとがきの中でこう語っています。

私の願いは、高い城の男の田上氏がいつまでも記憶に残ることだ。

「高い城の男」あとがきより

田上氏は物語終盤、手崎将軍とヴェゲナー必死でかばい、二人を銃撃戦から守り抜きます。

自分は二人の隠れ蓑であり、真実を隠した仮面であると感じる。

自分にはどうにもできない事態、日本が直面するであろうドイツからの激しい攻撃が自分の背後で、水面下で進んでいくのを知っていながら、自分の力ではどうにもできない。

自分ではどうにもできないが、今自分がやれることは何か、何が正しいのか。

銃撃戦と日本に迫る脅威に精神を押しつぶされながらも、最後にはドイツ領事館のライスに対して、真正面から挑んでいきます。

銃撃戦で二人を射殺したのは自分であり、ドイツがやろうとしていることは「悪」だとはっきり伝えます。

そしてドイツに対してユダヤ人の引き渡し(フランク)を拒否し、釈放させました。。

最初の田上氏からは想像もできないこの行動ぶりこそ、小説が伝えたい「勇気ある一歩」なのではないかと思います。

世界観の考察

『高い城の男』で目を引くのが

「第二次世界大戦で枢軸国側が勝利していたら」

という歴史改変SFの設定でありながら、作中で

「連合国側が勝利してたら」

という内容の小説が書かれているという二重構造になっている点です。

今と違う選択肢をとった未来を描くストーリー自体は、

現代だとよくある設定だと思いますが、

更にその世界から逆の選択肢をとった世界をも登場させるという3重構造になっています。

すなわち『イナゴ身重く横たわる』という小説です。

この逆転した世界が小説で描かれているというのが

非常に面白い点となります。

私たちの世界は、第二次世界大戦で連合国が勝利した世界です。

そして私たちの世界ではフィリップ・K・ディックが「高い城の男」という小説で、枢軸国が勝利した世界という逆の世界を描いています。

一方「高い城の男」の世界では、枢軸国が勝利した世界になっています。

そしてこの「高い城の男」世界ではホーソーン・アベンゼンが『イナゴ身重く横たわる』という小説で連合国が勝利した世界を描いています。

まるで表裏一体の世界観です。

私たちの世界が真実で、小説の世界は偽物なのか?

では小説の世界が偽物ならば『イナゴ身重く横たわる』の世界は本物なのか?

メタフィクションを感じる作りですよね。

この時点で想像は膨らみますが、ディックが描いた世界はおそらく表裏一体の世界という訳ではなさそうです。

何故なら、『イナゴ身重く横たわる』で描かれている世界は、現実の私たちが経験した世界ともまた違うからです。

パールハーバーの下りも含めて、作中で語られている『イナゴ身重く横たわる』の内容は私たちの知っている歴史とは異なっていますよね。

つまり逆転した世界というよりは、どちらかというと平行世界・パラレルワールドと言われるような、無限に広がる世界と解釈する方が正しいかもしれません。

しかしこの解釈は、あまり重要ではありません。

重要なのは、真実とは何か、何を真実とするか、という点です。

真実とは何か?

例えば装飾品で言うと本物と模造品

史実性を持つモノだけが本物と呼ばれ、史実性を持たないモノは模造品

そして史実性というのは頭の中だけにある形のないものだと、作中でウインダム・マトスンがライターを例にとって説明しています。

つまりそれは、人間次第で本物にも模造品にもなる紙一重な存在ということです。

史実性というのは神秘的なエネルギーがにじみ出てくるような内部的なものではなく、外から付与される外部的なものです。

コレクターにとって喉から手が出るほど欲しいものでも、史実に興味のない人からするとこんな高いなら模造品でも良い、なんて思う人は多いです。

何故ならその物体そのものに変わりはないからです。

ですがコレクターはその史実性に価値を見出しています。

では史実性のあるものだけが本物で、価値のあるものなのでしょうか。

それは違います。史実性がなくても価値があるものはもちろん存在しますし、価値も外から付与するものだからです。

作中でフランクは精巧な模造品を作る一方、エドと共に模倣品ではない、史実性のないまったく新しい装飾品を作り出し、ロバートチルダンのお店で委託販売を開始します。

エドとフランクは独特なデザインで装飾品を作ったものの、これが何を意味するかなどはもちろん考えていません。お金を稼ぐ一心です。

この装飾がガラクタと判断されるのか、新しい価値観が芽生えた装飾品と化けるのかは、人それぞれの解釈次第という訳です。

意図したことではないものの、売る人間がそれを真実と捉えて普及する努力をすれば、それは結果的に新しい価値観が芽生えた装飾品と化けるかもしれません。

ただ世界情勢を動かせる人間でもない、ただの一般人であるチルダンがこの勇気ある一歩を踏み出すことは、全く意味のないことかもしれません。

何故ならそんなことをしなくても、特に生活に困らないからです。

しかし、ポール梶浦との会話とそのバックボーン、第二次世界大戦での敗北、アメリカ人としての誇り・・色々なことが混じりあった結果、チルダンはこの装飾品に力を入れて取り組むことにします。

今までではあり得なかった心の変化と行動。

真実にも偽物にもなりえる装飾品に対して、自分なりに一番正しいと感じたこの勇気ある一歩が、チルダン自身の心の開放となります。

チルダンと田上の道(タオ

あれだけ史実性にこだわっていたチルダンが、まったく新しい装飾品に関心を持ち始める、という史実性からの解放。

この行動は、チルダンが求めていた道(タオ)なのかもしれない、と私は感じています。

少し難しい話になりますが、本来タオとは老子(中国の哲学者)的にいえば、「天地より先に存在したものがタオであり、万物はタオより生まれた」とされています。

万物とは「名前の付いたモノ」という意味です。

ペンとか、うさぎとか、なんでもよいです。

しかしこの名前は全て人間が勝手につけたものであり、本来すべてのものには名前がなかったはずです。

この名前のなかった状態のモノが「天地より先に存在したもの(混沌)」であり、タオということです。

名前を付けられた時点で万物となってしまいます。

分別され境界線が引かれたものということです。

つまり境界を引けば引くほど、タオから離れることになります。

老子はタオについてこうも語っています。

価値判断による是非(分別)を行うことが、タオが失われる原因となっている」

チルダンはどうでしょうか。

彼は史実性という固定観念から解放され、まったく新しい装飾品(名前のないもの)に何かを感じて、これに力を入れます。

まさしく、価値判断の是非をやめてタオに近づいているということになりませんか。

このタオは次の田上の話ともつながります。

田上のタオ

田上は作中で唯一、真実の世界を実際に体験する人物です。

彼は銃撃戦以降、信念に動かされるように損な役回りを演じています。

公園で悩んだ田上ですが、チルダンからもらった装飾品に心理を求めた結果、真理に触れます。

そして真実の世界、すなわち連合国が勝利した世界をみることになります。

これは田上の心の変化と、損な役回りという行動の結果が起こした結果という解釈もできます。

砕いて説明しますが、老子は学問をすると日々をするが、タオをすれば日々をする。そして損をして生きていくと無為(むい)になる。無為になれば物事はひとりでに動いていく」という意味の言葉を残しています。

つまり、現世利益となる行為をするよりも、タオをして損をしていけば無為の境地に達することができる。

悟りの境地で言う「無分別智」と似たような意味です。

この説明で行くと、田上はタオをしたことで損をして分別がなくなっていく。

つまり田上は知らぬ間にタオをしたことで真理に近づいた、とも取ることができます。

真理に近づき、分別がなくなったとき、装飾品が真実の世界を見せてくれた・・・・という幻想的な解釈なんてのは、考えすぎでしょうか。

「高い城の男」まとめ

「高い城の男」という作品は登場人物の心情の変化にこそ、面白みのある作品です。

それぞれに宿った信念と、そこから生まれた勇気ある行動にこそ、この物語の伝えたいことが詰まっているのではないかと思います。

そしてこの物語のモチーフである「真実とは何か」という問いに対しては、2つの史実性の違う世界を使って表現しています。

「高い城の男」の世界が真実なのか、

はたまた「イナゴの小説の中の世界」こそ真実なのか。

史実性を持つモノだけが本物で、

史実性を持たないものはニセモノなのか。

 

イナゴの小説の世界はフィクションであり、史実性を持ちません。

しかし物語ラストの易経シーンでは、イナゴの世界が真実であると結論が出てきいます。

 

フィンクの作った全く新しい装飾品史実性を持ちません。

しかしチルダンはその装飾品から価値観を見出し、田上はその装飾品から真理に近づきました。

 

史実性の有無なんてものは紙一重な存在であり、人次第で変化するものです。

真実か偽物かというのも実はあいまいで、明確な分別はなく、人次第で変わるものなのかもしれません。

昔読んだことのある人は、是非また手に取って読んでみてください。

耳で小説を聞くのも面白いので、「audible」もオススメです。

ではまた。

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